こんにちは!今回も偉人シリーズです!
・本記事の内容は、筆者の個人的な見解を示すものではなく、特定の政治的思想や立場を推奨する意図はありません。
・記事に含まれる歴史的・社会的な情報は、できる限り正確を期していますが、解釈の違いや新たな研究により変化する可能性があります。
・本記事の内容については、読者自身の判断のもと、必要に応じて複数の情報源を参考にしてください。
マハトマ・ガンディーは、インド独立運動を指導し、非暴力・不服従の思想を広めた偉人です。彼の名前は世界中で知られており、現在でも多くの人に影響を与えています。インドをイギリスの植民地支配から解放するために戦っただけでなく、平和と正義を求める運動を続けました。
ガンディーの思想は、暴力を使わずに社会を変えるというものです。これは「非暴力・不服従運動」と呼ばれ、インドだけでなく、アメリカの公民権運動など、世界中の社会運動に影響を与えました。例えば、アメリカのマーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、ガンディーの考え方に影響を受け、公民権運動を進めました。
しかし、ガンディーの人生は決して楽なものではありませんでした。何度も投獄され、厳しい状況の中で戦い続けました。それでも彼は信念を貫き、人々とともに歩み続けました。本記事では、そんなガンディーの生涯とその思想について詳しく紹介していきます。
彼がどのように生まれ育ち、何を考え、どのような影響を社会に与えたのかを見ていきましょう。彼の言葉や行動が、今を生きる私たちにどのような教訓を与えてくれるのか、一緒に考えていきましょう!
ガンディーが生きた時代背景
マハトマ・ガンディーが生きた時代は、インドがイギリスの植民地として統治されていた時期でした。彼が生まれた1869年、インドはすでに100年以上にわたってイギリスの支配を受けていました。イギリス東インド会社が主導していた統治は、1857年のインド大反乱(セポイの反乱)を経て、イギリス政府による直接支配に移行しました。この支配体制のもと、インドの人々は経済的にも政治的にも厳しい状況に置かれていました。
イギリスによるインド統治の影響
イギリスはインドを「世界の工場」として利用し、現地の人々を低賃金で働かせながら、莫大な利益を得ていました。特に、綿織物産業はイギリスの支配によって大きな影響を受けました。インドの伝統的な手織り布産業は、イギリス製の安価な綿製品の流入によって衰退し、多くのインド人が職を失いました。また、インドで生産された作物の多くはイギリスに輸出されるため、現地の農民は貧困にあえいでいました。
さらに、イギリスは人種差別的な法律を制定し、インド人をイギリス人よりも下の存在として扱いました。例えば、インド人はイギリス人が利用する公共施設を自由に使うことができず、政治に参加する権利もほとんどありませんでした。このような差別は、後にガンディーが掲げる「非暴力・不服従運動」の大きな原動力となりました。
インドの独立運動の始まり
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、インドでは民族運動が次第に高まりました。その中心となったのが、1885年に結成されたインド国民会議(インド国民会議派)です。最初は穏健な改革を求める団体でしたが、次第に独立を目指す運動へと発展していきました。この動きの中で、ガンディーも重要な役割を果たしていくことになります。
一方で、当時のインド社会はカースト制度による身分差別や宗教対立といった問題を抱えていました。ガンディーは、イギリスからの独立だけでなく、社会内部の差別や対立をなくすことも目指しました。彼の運動は単なる「反イギリス運動」ではなく、「すべてのインド人の平等を実現する運動」でもあったのです。
世界の状況とインド
ガンディーの生涯は、世界全体が大きく変化した時代と重なっています。彼が青年期を迎えた19世紀末から20世紀初頭は、産業革命の影響で西洋諸国が急速に発展し、植民地支配が拡大していました。特に、イギリス・フランス・ドイツといった国々がアジアやアフリカの国々を支配し、自国の経済的利益を追求していました。
また、第一次世界大戦(1914〜1918年)が勃発し、多くのインド人兵士がイギリス軍として戦場に送られました。インド人たちは「イギリスのために戦えば独立の機会を得られるかもしれない」と考えましたが、戦争が終わってもイギリスはインドを独立させることはありませんでした。このことが、インドの人々の怒りをさらに高め、独立運動の勢いを加速させる要因となりました。
ガンディーはこうした時代の中で、暴力ではなく非暴力の手段によって社会を変えようとする新しい思想を持ち、それを実践しました。彼の思想は、当時のインドだけでなく、世界に大きな影響を与えることになります。
ガンディーの生い立ち
マハトマ・ガンディーは、1869年10月2日にインドのグジャラート州ポールバンダルで生まれました。本名はモーハンダース・カラムチャンド・ガンディーで、後に「マハトマ(偉大なる魂)」と呼ばれるようになります。彼の家は商人カーストのヴァイシャに属しており、父親のカラムチャンド・ガンディーはポールバンダル藩の宰相を務める重要な役職に就いていました。
母親のプトリバイは敬虔なヒンドゥー教徒で、彼女の影響を受けて幼い頃から宗教的な生活を送っていました。彼の家では、菜食主義が当たり前であり、母親は頻繁に断食を行い、祈りを捧げる姿が日常でした。ガンディー自身も、幼少期から宗教に対する強い関心を持っていました。
内向的で素直な少年時代
ガンディーは内向的でおとなしい性格の少年でした。学校の成績は優秀ではありましたが、特別に目立つ存在ではなく、むしろ自信がない性格だったと言われています。しかし、彼は非常に誠実で嘘をつかない少年として知られていました。後に彼は自伝の中で、自分が正直であることに強い誇りを持っていたと述べています。
また、彼は幼少期から「非暴力」の考えに影響を受けていました。当時のインドでは、動物を犠牲にする儀式や暴力的な事件が珍しくありませんでしたが、ガンディーは母の影響で動物を傷つけることを極端に嫌っていたと言われています。この考え方が後の「非暴力主義」の基盤となっていきます。
13歳で結婚
ガンディーはわずか13歳の時に、同じ年齢のカストゥルバイという少女と結婚しました。当時のインドでは早婚が一般的であり、家族の決めた相手と結婚することが当たり前でした。彼は後に自伝の中で、結婚生活を通して「愛とは何か」を学んだと語っています。しかし、まだ幼かったため、妻との関係には多くの葛藤があったとされています。
彼は結婚後も学校に通い続けましたが、一時期は家庭の事情や自身の未熟さから勉強に集中できなかったこともあったようです。しかし、次第に学問への関心を深め、特に法律や政治に興味を持つようになりました。
イギリスへの留学
ガンディーの人生が大きく変わるきっかけは、イギリスへの留学でした。彼の家族は伝統的な価値観を重視していましたが、父親が政治家であったこともあり、「家族の名誉のために教育を受けさせるべきだ」と考えました。その結果、ガンディーは1888年、18歳でロンドンに渡り、ロンドン大学の法律学校(インナー・テンプル)に入学しました。
ロンドンでの生活は、彼にとって大きな試練でした。西洋文化に馴染めず、言葉の壁にも苦しんだのです。また、イギリスでは肉を食べるのが一般的でしたが、菜食主義を貫こうとしたガンディーは、食事に苦労しました。しかし、彼はやがて菜食主義者の団体と出会い、同じ価値観を持つ人々と交流することで、自分の信念をより強めるようになりました。
法律を学ぶ一方で、ガンディーはイギリス社会の文化や価値観にも触れました。彼は西洋の民主主義や自由の思想に興味を持ち、「インドとイギリスの関係」について考えるようになりました。この時期に、彼の人生観が大きく変化していったのです。
次の段落では、南アフリカでの経験と非暴力運動の始まりについて詳しく説明します!
南アフリカでの経験と非暴力運動の始まり
法律の勉強を終えたガンディーは、1891年にインドへ帰国しました。しかし、すぐには法律家として成功することができず、職を得るのに苦労しました。そんな中、1893年に南アフリカのナタール州(現在のクワズール・ナタール州)にあるインド系企業から仕事の依頼を受け、南アフリカへ渡ることになります。ここでの経験が、ガンディーの人生にとって大きな転機となりました。
南アフリカでの人種差別
当時の南アフリカは、イギリスとオランダ系白人(アフリカーナー)が支配する社会であり、インド人を含む非白人に対する差別が非常に厳しいものでした。ガンディーは南アフリカに到着して間もなく、人種差別の現実を身をもって体験しました。
ある日、彼は裁判所で弁護士として働くためにターバンを巻いていたところ、白人の裁判官から「ターバンを外せ」と命じられました。また、ピーターマリッツバーグ駅では、ファーストクラスの切符を持っていたにもかかわらず、白人専用の座席に座ることを拒否され、列車から追い出されるという事件が起こりました。さらに、南アフリカではインド人に対して特別な税金を課し、自由な移動や商売を制限する法律が次々と制定されていました。
こうした差別に直面したガンディーは、「この不正義を変えなければならない」と強く決意しました。彼はもともと政治的な活動をするつもりはありませんでしたが、この経験が彼を社会運動家へと導くきっかけとなったのです。
「サッティヤーグラハ(真理の力)」の提唱
ガンディーは、南アフリカでインド人社会を守るための活動を始めました。1894年にはナタール・インド人会議を設立し、イギリス政府に対してインド人の権利を求める運動を展開しました。しかし、武力を用いた闘争ではなく、彼は「サッティヤーグラハ(Satyagraha)」という新しい概念を提唱しました。
「サッティヤーグラハ」は、サンスクリット語で「真理の力」や「魂の力」を意味する言葉であり、非暴力による抵抗運動を指します。これは、単なる消極的な抵抗ではなく、積極的に正義を主張しながらも、暴力を用いずに不当な法律や制度に対抗するという考え方です。この思想のもと、ガンディーは非暴力的なデモやストライキを行い、インド人労働者の待遇改善を求めていきました。
南アフリカでの闘争と成果
1906年には、南アフリカ政府がインド人に対して指紋登録を義務付ける法律(「アジア人登録法」)を制定しました。これに反対するため、ガンディーは大規模な非暴力抵抗運動を展開しました。彼を支持する多くのインド人が逮捕され、ガンディー自身も何度も投獄されました。しかし、彼らは決して暴力に訴えることなく、不当な法律に従わない姿勢を貫きました。
この運動は数年間続きましたが、最終的には1914年に南アフリカ政府と妥協が成立し、インド人への指紋登録の義務化が撤廃されるなど、一定の成果を得ることができました。こうして、ガンディーの「非暴力・不服従運動」の有効性が初めて証明されたのです。
ガンディーは南アフリカでの活動を通じて、「非暴力の力によって社会を変えることができる」という信念を確立しました。この経験は、後にインド独立運動を指導する際の大きな基盤となります。
次の段落では、インド独立運動と非暴力・不服従運動の展開について詳しく解説していきます。
インド独立運動と非暴力・不服従運動の展開
南アフリカでの非暴力運動の成功を経て、1915年にガンディーはインドへ帰国しました。この時のインドは依然としてイギリスの植民地であり、多くの人々が貧困や差別に苦しんでいました。彼は帰国後、インド各地を回り、人々の暮らしや社会問題を観察しました。そして、自らの経験を活かし、インド独立運動に本格的に関わるようになります。
非暴力・不服従運動の始まり
ガンディーがインドで最初に取り組んだ運動の一つが、チャムパーランの農民運動(1917年)です。チャムパーラン地方では、イギリス人の地主がインド人農民に対して、強制的にインディゴ(藍)を栽培させ、農民たちは極度の貧困に苦しんでいました。ガンディーは現地に入り、農民たちと共にイギリス政府に抗議しました。この運動は成功し、農民の生活が改善されるきっかけとなりました。
続いて、1918年のアーメダバード紡績工ストライキでは、労働者たちの待遇改善を求めてストライキを指導しました。ガンディー自身も断食を行い、労働者とともに闘いました。結果として、労働者たちの賃金が改善され、この運動も成功を収めました。こうして、ガンディーの「非暴力・不服従」の考え方が、インド国内でも広まっていきました。
ローラット法への反対とアムリットサル虐殺事件(1919年)
しかし、イギリス政府はインド人の独立運動を抑え込むため、1919年に「ローラット法」を制定しました。この法律は、イギリス政府が「反政府活動を行っている」と見なした者を、裁判なしで投獄できるという非常に厳しいものでした。ガンディーはこの法律に強く反対し、全国的な非暴力抵抗運動(ハルタール)を呼びかけました。
この運動はインド全土に広がりましたが、一部の地域では暴動も発生しました。すると、イギリス軍はこれを鎮圧しようとし、アムリットサル虐殺事件(1919年4月13日)が起こりました。パンジャーブ州のアムリットサルでは、非武装の市民が集まって抗議をしていたところ、イギリス軍が突然発砲し、約400人以上が死亡、1000人以上が負傷しました。
この事件はインド中に衝撃を与え、「イギリスに協力するのではなく、完全に独立を目指すべきだ」という考えが急速に広まりました。ガンディーは、暴力による復讐ではなく、さらに徹底した非暴力運動を展開することが重要だと訴えました。
1920年 非暴力・不服従運動(サッティヤーグラハ)の全国展開
1920年、ガンディーは「非暴力・不服従運動」を全国規模で展開しました。この運動は、イギリスの支配に協力しないことを目的としており、具体的には以下のような行動を呼びかけました。
- イギリス政府の職を辞める(官僚や教師などが辞職)
- イギリス製品のボイコット(イギリス製の布製品などを買わず、国産のものを使用)
- 税の不払い運動(イギリス政府への税金支払いを拒否)
多くのインド人がこの運動に参加し、イギリスの統治に大きな影響を与えました。しかし、一部の地域では暴力的な衝突が発生し、1922年のチャウリ・チャウラ事件では、抗議デモが暴徒化して警察署が焼き討ちされ、警官が死亡する事件が起こりました。これを受けて、ガンディーは運動を一時中止し、「非暴力を守れなければ、運動は続けられない」と宣言しました。
1930年 塩の行進(ダンダー・マーチ)
ガンディーの次の大きな運動が、1930年の「塩の行進」です。当時、イギリス政府はインド人が自由に塩を作ることを禁止し、政府が塩を独占販売していました。塩は生活必需品であり、庶民にとって大きな負担でした。
そこで、ガンディーは自ら塩を作ることで政府に抗議することを決めました。彼は3月12日から4月6日までの約390kmを歩き、最終的に海岸に到着し、海水を煮詰めて塩を作りました。この行動はインド中に広まり、多くの人々が塩の製造を始め、イギリスの統治に対する強い反発を示すことになりました。
この運動によって、ガンディーを含む6万人以上が逮捕されました。しかし、この運動は国際的にも大きな注目を集め、インド独立運動が世界的に知られるきっかけとなりました。
イギリスとの交渉と第二次世界大戦
1931年、ガンディーはイギリス政府との交渉のためにロンドンへ向かい、「第二次円卓会議」に出席しました。しかし、イギリス側はインド独立に対して積極的な姿勢を見せず、交渉は不調に終わりました。その後、第二次世界大戦(1939〜1945年)が勃発し、イギリスはインド人を戦争に動員しようとしました。これに対し、ガンディーは「イギリスはインドを独立させるべきだ」と強く要求しました。
戦後、イギリスは経済的にも軍事的にも弱体化し、ついに1947年8月15日、インドは正式に独立を果たしました。しかし、独立の過程でヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立が激化し、インドとパキスタンに分裂することになりました。
ガンディーの晩年と遺産(現代への影響)
1947年8月15日、長年の闘争の末にインドは独立を果たしました。しかし、その道のりは平穏なものではありませんでした。独立と同時に、インドはヒンドゥー教徒の国「インド」と、イスラム教徒の国「パキスタン」に分裂しました。この分裂は、多くの流血と混乱を引き起こし、ガンディーは最後までこの対立を止めようと奔走しました。
インド・パキスタン分裂とガンディーの努力
インド独立が決まると、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間で大規模な暴動が発生しました。特に、パンジャーブ州とベンガル州では、数十万人が犠牲となり、数百万人が家を追われる事態となりました。ガンディーは、この暴動を鎮めるために断食(ハンスト)を行い、「宗教を超えて団結すべきだ」と訴え続けました。
彼はヒンドゥー教徒の暴徒にも、イスラム教徒の暴徒にも非暴力を説き、「パキスタンとの平和共存が不可欠だ」と主張しました。その結果、多くの人々が暴力をやめ、彼の平和への努力は一定の成果を上げました。しかし、ガンディーのこの姿勢は、一部のヒンドゥー至上主義者たちの反感を買うことになりました。
1948年 ガンディー暗殺
1948年1月30日、ガンディーはニューデリーで、ある集会に向かう途中でナトゥラム・ゴードセというヒンドゥー過激派の青年に銃撃され、亡くなりました。ゴードセは、ガンディーの「イスラム教徒との融和政策」に反対しており、「彼のせいでヒンドゥー教徒が苦しんでいる」と考えていました。
ガンディーは、息を引き取る直前、「ヘー・ラーム(おお神よ)」という言葉を発したとされています。この言葉は、彼の信仰心を象徴するものであり、最期の瞬間まで非暴力と平和を願っていたことを表しています。
ガンディーの遺産(現代への影響)
ガンディーの思想は、インド独立にとどまらず、世界中の平和運動に大きな影響を与えました。彼の非暴力主義(サッティヤーグラハ)は、後の多くの指導者に受け継がれています。
- マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
アメリカの公民権運動の指導者であったキング牧師は、ガンディーの「非暴力・不服従運動」に大きな影響を受けました。彼は、黒人の人権を勝ち取るために、暴力を使わずにデモやボイコットを行い、公民権法の成立へとつなげました。 - ネルソン・マンデラ
南アフリカのアパルトヘイト撤廃に尽力したネルソン・マンデラも、ガンディーの非暴力思想を参考にしました。彼は一時期、武力闘争に踏み切ることもありましたが、最終的には平和的な交渉を通じて南アフリカの民主化を実現しました。 - ダライ・ラマ14世
チベットの指導者であるダライ・ラマ14世も、ガンディーの思想に影響を受けています。中国政府によるチベット弾圧に対して、ダライ・ラマは「非暴力による対話と和解」を訴え続けています。
ガンディーの思想の現代的意義
現代社会においても、ガンディーの非暴力と平和の思想は重要な意味を持っています。例えば、環境問題や人権問題に対しても、非暴力的な抗議活動が世界中で行われています。また、彼の「シンプルな暮らし」の考え方は、現代のサステナビリティ(持続可能性)の考え方にも通じるものがあります。
ガンディーは「世界に変化を求めるなら、まず自分がその変化になれ」という言葉を残しました。これは、誰もが社会を変える力を持っていることを示しており、現代の私たちにも大きな示唆を与えています!
・ガンディー
・ガンディー|日本大百科全書・世界大百科事典|ジャパンナレッジ
・マハトマ・ガンディー – Wikipedia
・「1920年代の宗派暴動とマハトマ・ガンディーの宗教観の変遷」(2012、外川昌彦、『京都大学学術情報リポジトリ』現代インド研究 第2号 pp.3-19)
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